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ゾロが物心ついたときに親はいなかった。
もしかしたら母親はまだいたのかもしれないが、ゾロはそれらしき女を見たことがなかった。
ボロボロの薄汚い布を服代わりに身に着けて、こっそりと路地のゴミ箱を漁る。
周囲の気配に気を配って物音を立てないように静かに食べ物を探す。
一度店員に見つかって酷い目に合わされたのだ。
痛いし、苦しいし、きっとこのまま殺されると思って、振り下ろされた脚を見ないで済むように目を閉じた。
その時はたまたま店内から出てきた客がそれを見咎めて止めてくれたから殺されずにすんだ。
もっとも、手当てなどしてもらえるはずもなく、ゾロはまるでゴミのように薄汚い路地に放り捨てられたのだ。
きっとそのまま死んでもかまわないと思われていたのだろう。
だから、食べ物を探す時はいつも以上に気をつけていた。
そう、そのはずだった。
いくつか積まれた木箱の奥にポツンと落ちているリンゴを見つけて、手を伸ばして掴もうとしたときだった。
ガシャンと背後で金属音がして、自分がその木箱の中にすっかり入り込んでいることに気付いた。
「よっしゃあ、捕まえたぜ魔物。」
興奮した男の声にゾロは首を傾げた。
魔物など何処にもいない。
木箱の中には薄汚れた自分がいるだけだ。
足音が近付き、ガタガタと木箱を揺さぶられる。
ゾロは金属の棒の隙間から落ちそうになったリンゴを必死で掴んだ。
「へえ、本当に赤い目だな。」
いつの間にかその金属の棒の間から若い男が覗き込んでいる。
前にゾロを蹴り殺しかけた男と同じぐらいの年嵩だ。
ゾロは今度こそは殺されるのかとジッとその顔を見つめた。
「なんだよ、腹減ってんのか?」
独り言のように呟くと男が目前から去っていく。
次にガタンと音がして、ゾロはその男に木箱が担ぎ上げられたのだと見通しの良くなった視界に目を丸くする。
「ちょっとジッとしてろよ。危ないからな。」
ピィーピューと陽気な口笛を鳴らしながら男はゾロを運んでいく。
ドンドンと薄暗いそこから、灯りのある大通りが見えてくる。
ゾロはかすかに左右に揺れる箱の中でその灯りをジッと見ていた。
そのまま躊躇なく路地を抜けた男は道の横においてあった荷車に木箱を下ろすと、先程と同じように棒の間からゾロを覗き込んでくる。
そしてゾロにニッカリと笑った。
「そのリンゴ食べてろよ。大丈夫、買ったばっかりだから傷んでねぇよ。」
男の言葉と手の中のリンゴを見比べて、ゾロは言われたように一口リンゴに齧り付いた。
口の中に甘酸っぱいリンゴの香りが広がる。
腐ってないそれは何処を食べてもいい匂いがした。
「よし、宿に帰ったらもう少しいいもん食わしてやるからな。」
嬉しそうに男は笑うと木箱に白い布を被せてゾロの姿を隠してしまう。
ゾロは視界が覆われたことに何処かホッとした気分で夢中で手の中のリンゴに齧り付いた。
自分がどうなるのかは分からないが男がこの布が取り去るまでは安全だろうと思ったのだ。
ゴトゴトと車輪が跳ねる音で荷車が動き出したのを感じた。
もうこの路地に戻ってくることは出来ないんだろうなとゾロは布越しにぼんやりと遠ざかっていく景色を思う。
ゴトゴトゴト・・・規則正しい音にかなり長い時間揺られて、次に布が取り払われたのは小さな宿屋の前だった。
荷車を脇道においた男は一度姿を消し、ゾロの木箱にもう一度布を巻きつけると、路地から運び出した時のように肩に担ぎ上げて宿屋へ入っていった。
次に布が取り払われた時は、その宿屋の一室のようでゾロはキョロキョロと棒の隙間から物珍しげに部屋を眺める。
「はい。お、ありがとう。」
扉を叩く音がして男が何か言葉を交わしている。
パタンと音がして部屋の中になにやら美味しそうな匂いが広がった。
コツコツと音がして木箱の前に男が腰を降ろして棒越しにゾロを覗き込んでくる。
「これ、外してやりたいんだけどさ。鍵がないと開けられないんだ。」
コンと金属の棒を指先で弾いて男は申し訳なさそうに笑った。
どうやらこの男はすぐにゾロを殺すつもりはなさそうだとその言葉を聞く。
「明日の朝には迎えが来るから、今夜はその中で我慢してくれよな?」
迎えという意味は分からなかったが、ここから出られそうにないことと、男がゾロの命をとるつもりがないことは分かった。
ゆっくりと首を縦に振るとパアッと男は嬉しそうに笑った。
そして、木箱の上に置いていたカップを取り出した。
湯気のたつそれからはいい匂いがしている。
ゾロが居た路地にたまに流れてくる料理の匂い。
「ごめんな。棒の間から渡せそうなものってこの時間だとこれぐらいしかなくてさ。」
そっと隙間から差し出されたカップと男の顔を見比べる。
「大丈夫、毒なんて入ってないよ。熱いから気をつけて飲めよ。」
恐る恐る伸ばした手で掴んだカップは温かく、ゾロはそっと口元に運ぶ。
カップからふわりと立ち上った美味しそうな匂いに誘われてカップを傾けた。。
途端に熱いスープに噎せ、火傷しそうになって涙目になったゾロに男は楽しそうに笑った。
「だから、熱いんだって、こうやって。」
男は手を口元に持っていくとふうふうと息を吹きかけるような仕草をする。
それを真似てカップに息を吹きかけ、今度はそっとスープを口に運ぶ。
始めはまともに出来なかったそれも途中でコツを掴んだのか火傷することもなく飲むことが出来ようになった。
そんなゾロの動作をジッとみていた男が微かに溜息をついた。
「魔物って言うからどんなのかと思ってたら、ただのガキだよなお前。」
ゾロは男の言葉にゆっくりと首を縦に振った。
自分は魔物ではないし、ただの薄汚い子供に過ぎない。
「その目のせいで捨てられたのか?」
男の言葉の意味が分からず首を傾げる。
目の色など知らないし、自分の顔も見たことがないのだ。
唯一分かるのはボサボサに伸びきったこの緑の髪だけ。
「・・・口利けないのか?」
何も言わないゾロに男は困ったように笑う。
ゾロは空になったカップをそっと棒の間から差し出した。
「まだいるか?」
ゆっくりとゾロの首が横に振られるのを確認した男がカップを持って外へと出て行く。
きっとそれを返しに出かけたのだろうと思いながらゾロは木箱の中で膝を抱えて寝転んだ。
はじめて飲んだ温かい飲み物のおかげで身体がぽかぽかと温かい。
もし殺されるのならばこの男の見ていない所でやって欲しいとゾロは願いながらゆっくりと目を閉じた。
翌朝、薄暗いうちにゾロは起こされ、男の手から別の男の手へと木箱ごと渡された。
箱の中で、あとで食べろといって男に渡された真っ赤なリンゴに齧り付く。
やっぱり始めと同じように布で覆われた視界と、ゴトゴトと音をたてて動いている荷車にゾロは今度は何処に行くのだろうとぼんやりと考える。
とりあえずは昨夜の優しい男の目の前で殺されることはなくなったようでそれだけは良かったとゾロは思っていた。
「ただいま。」
「おかえりなさーい、あ、それが魔物?」
ガタンと音がしていきなり周囲が騒がしくなったのにゾロは眠りかけていた意識を浮上させた。
ガヤガヤと人の気配がし、中に混じって甲高い少女のような声も聞こえる。
ここはいったい何処だろうとゾロが疑問に思っていると視界を覆っていた布が取り払われた。
「うわー、見て見て、すごい綺麗な魔物。」
パチパチと瞬きするゾロの目の前にソバカスの残る少女の顔がある。
きょとんと見つめればキャアと黄色い悲鳴を上げて少女が飛び跳ねるようにして消えていった。
「目が赤いの。」
「へえ・・どれどれ?」
少女の次に覗き込んだのは長い黒髪の若い女。
ゾロをじっくりと眺めてそれで満足したのか女は去っていった。
そのあとも次々といろいろな顔が現れてはゾロを覗き込んで去っていく。
目まぐるしく変わるそれにゾロは言葉もなくただひたすらにそれらを見ていた。
「ねえ、団長。悪いんだけどあれは魔物じゃなくて普通の子供じゃないのかしら?」
遠くで聞こえた女の声に少女の次に棒の間から見ていた黒髪の女だとゾロは思った。
「ああ、ありゃあ発育は悪いが、ちょっと珍しい髪の色と目の色ってぐらいで普通の人間だろうよ。」
「なら、なんで買ってくるのさ?」
「だから、珍しいだろう?今は幼すぎて駄目だがもう少し育てば別の使い道がある。」
「・・・・・・・。」
「お前が踊りを仕込んでやればいい。きっと行く先々で稼いでくれるさ。」
そのあとも女が何事か団長と呼ばれた男に言っていたようだったが、周囲の騒ぎが酷くてゾロには聞き取れなかった。
そしてその日からゾロはこの旅一座の魔物として暮らすことになったのだ。
魔物としての生活は多少の不便さはあるものの、食べ物に不自由しないのはゾロにはありがたかった。
ガリガリにやせ細っていた手足が少しずつ子供らしい丸みを帯び、綺麗好きな踊り子と曲芸師の手により、二日に一度は風呂に入れられ隅々まで磨かれる。
長く伸ばし放題だった髪も背の半ばで切りそろえられ、櫛を入れられ手入れされる。
ふわふわとしたその髪をたまに近付いて来ては少女が嬉しそうに触っていくのが不思議で仕方なかった。
また、見世物として飾り立てられ鉄の檻に入っている以外は、ゾロも他の子供達と同じような簡易なものを身に着けていた。
清潔なそれは多少の綻びはあるものの気持ちもよくゾロは気に入っている。
ただ、見世物用の檻に入っていないときでも、ゾロは荷馬車を改造した檻に入れられその場に鎖で繋がれていた。
「ゾロ・・・。」
そろそろ日も暮れて眠ろうかと床板に身体を横たえた時外からそっと名を呼ばれた。
静かなその声に黒髪の踊り子の姿を思い浮かべそっと檻の隙間から外を覗く。
「良かった、寝ちゃってるかと思ったわ。」
ホッとしたように笑った彼女だけがゾロの名を知っている。
ゾロは他の誰とも口を利こうとしなかったし、懐こうとはしなかった。
そのゾロに根気よく付き合ったのが踊り子の彼女だったのだ。
ゾロは気を許した証として誰にも教えなかった自分の名前を彼女だけにそっと教えた。
「これ・・・、貰ってくれない?」
ほっそりとした白い手が檻の隙間から差し込まれて握りこんでいた手が開かれる。
手のひらの中にあるのは涙型の細い金のピアス。
「あたしのとお揃いなの。」
ゾロに横顔を見せて悪戯っぽく笑う。
手を出してそれを受け取ったゾロに踊り子は嬉しそうににっこりと笑った。
黒髪の中でキラリキラリとピアスが光る。
「ほんとはね、両耳に2個づつ着けるんだって。今日の踊りを見てくれたお客さんからの贈り物よ。」
「・・・。」
「きっとゾロに似合うと思うわ。」
にっこりと笑った彼女になんと言っていいか分からずゾロは黙り込む。
「なによ。不満なの?」
その沈黙を不満ゆえだと取ったのか彼女は唇を尖らせてそう聞いてくる。
咄嗟に首を横にブンブンと振って違うと伝えようとゾロは口を開きかけた。
「シッ、黙って。」
その口を踊り子に塞がれてゾロは目を丸くした。
遠くの方でざわざわとしたざわめきが聞こえている。
どうしたのかと彼女を見ればどこかをじっと見据えているようでその表情は固い。
そしてクルリとゾロのほうへ向き直り、そっとその手を外す。
「ゾロ、隠れてて。いい?絶対に動いちゃ駄目よ?」
真剣な眼差しに頷くと彼女はふわりと笑みを浮かべてゾロの髪を優しく撫でる。
そして手早く格子に布をかけ、荷馬車の幌を降ろすと何処かへ行ってしまった。
相変わらず布越しに人のざわめきと何やら物の壊れるような音が伝わってくる。
一座の人間が寝起きする場所と離されて荷物と一緒に置かれているゾロには外で何が起こっているのかわからない。
とりあえず彼女の言うようにしようとゾロは置いてある毛布に包まって荷馬車の隅でジッと蹲ったのだった。
次にその布が取り払われた時、ゾロが目にしたのは真っ赤な髪をした男だった。
初めてみた炎のようなその色に一瞬目を奪われた。
男は檻の中をジロジロと眺めると毛布に包まって隅に居たゾロに気付いてニヤリと笑った。
「お、お前がゾロか?」
初めてみた赤毛の男から自分の名前が出てゾロは目を瞠る。
ゾロの名前を知っているのは自分と先程ここに隠れるように言って姿を消した踊り子の彼女だけだったから。
「怖がらなくてもいい、こっちに来い。踊り子の姉さんからお前を助けてくれって頼まれたんだ。」
赤毛の男はそう告げると、ほらと言って檻の中に何か小さな光るものを投げ込んだ。
それに指を伸ばして拾い上げるとそれは涙型の金の細いピアス。
つい先程まで踊り子の耳に飾ってあったもの、ゾロがもう一つの手のひらに固く握りこんでいるものと同じものだった。
「俺の名はシャンクス。今からここの鍵を壊す。騒がないでくれよ?」
スラリと男が抜き放った剣にゾロはビクリと身体を竦めた。
ガッツっと音がして檻の鍵が壊されたのが分かった。
扉を開いてシャンクスと名乗った男が隅に身体を寄せたままのゾロを見て困ったように笑う。
「さ、ここから出て行こう。あの姉さんの頼みだ。」
姉さんが踊り子の彼女の事だとしてもゾロはここから動くことは出来ない。
静かに差し出されたシャンクスの手を見ながら後退り首を横に振る。
するとチャラリと鎖のすれる音がした。
「鎖で繋がれてんのか?!」
舌打する音がして忌々しいとばかりにシャンクスの語気が荒くなる。
それに脅えながらゾロはゆっくりと首を縦に振った。
檻に入れられ、そのなかで自由に動けるだけの余裕を保った長い鎖。
それが首にある皮のベルトの金属部分に繋がっていて、ゾロは檻の扉が空いていたとしてもこの檻から外へ出ることは出来ない。
鎖と床を繋ぐ鍵穴に鍵を差し込み、開錠しない限りはここから動けない。
キシっと床を軋ませて荷台の檻の中にシャンクスが登ってきた。
そしてゾロの手から毛布を取り上げると首から伸びている鎖を辿り、無造作に床に剣を振り下ろした。
ガキンと硬い音がして不意にゾロは身体が軽くなったのを感じた。
「さあ、これでいい。いこうぜ、ゾロ。」
にっこりと笑い鎖を断ち切った男の手を掴んでゾロはゆっくりと立ち上がった。
街の宿屋で分厚い皮の首輪を断ち切られ、所在なげにその場に立ちつくす。
ゾロは疲れたといってベットに寝転んだシャンクスをぼんやりと眺めていた。
シャンクスに連れられて檻から出るとそこは地獄絵図だった。
いつも陽気に歌を歌っていた少女は人形のように地面に横たわりぴくりとも動かない。
あちらこちらから聞こえる呻き声は知っているものもあれば知らないものもある。
驚いて足を止めたゾロにシャンクスは行くぞと冷たい顔を向けて鎖を手に引っ張って歩き出した。
先程の檻を覗いた陽気な人物と同じとは思えないその冷淡な態度に、驚きと諦めを感じてゾロは大人しく従いながら歩いていく。
「ま、待ってくれ!!」
背後からかかった聞き覚えのある声にあれは団長と呼ばれる男だとゾロは思った。
先を歩いていたシャンクスが立ち止まり、その前に団長が走りこむ。
「魔物を連れて行かないでくれ!!」
悲痛な響きを含んだ声にゾロは首を傾げる。
何がそんなに悲しいのだろうとゾロは不思議に思いながらその地べたに這いつくばった男を見つめた。
「その子を、その子まで居なくなったら・・・わしら・・・おまんまのくあげだ。」
団長の叫びを聞いたシャンクスは鼻で笑ったようだった。
「ふざけんな、傭兵がただ働きしたらそれこそおまんまのくいあげだぜ?」
「しかし・・・。」
「俺は踊り子の姉さんから魔物を報酬にしてあんた達の命を助けるように依頼された。魔物を貰っていくのは正当な成功報酬だ。」
シャンクスはニヤリと団長に笑ってみせた。
「まあ、条件次第では返してやってもいいぜ?」
「・・え・・本当ですか?」
途端に明るい表情になった団長にシャンクスは楽しげに続けた。
「俺の雇用の正当報酬を支払うんならな。金貨1000枚ビタ一文負けらんねえよ?」
「そ・・そんな無理です・・。」
金貨1000枚といったら、今の一座全員で5年はゆうに遊んで暮らせるだけの額だ。
ゾロ一人との引き換えに渡せる金額ではないし、もちろんそんな金がこの一座にあるはずもない。
「うーん、それが無理だって言うなら・・。」
団長にニヤリと笑い、気付かれないようにそっとシャンクスはゾロに目配せしてきた。
「あんたら全員死ぬか?」
優しげな声で告げられた言葉に団長の顔が紙のように白くなる。
「俺に報酬は渡せない、金も支払えないってなると、俺との契約破棄ってことだろう?傭兵との契約でそれを雇い主の勝手で反故にされた場合、俺達傭兵は雇い主の命で支払ってもらうことに決めてるんだよ。」
「・・・・・。」
「傭兵との契約など踏み倒せばいいと思う輩が増えて貰っても困るからさ。」
楽しそうなシャンクスの様子に団長の顔色はますます悪くなっていく。
「いいじゃん?どうせあんた達死んでたんだしさ、アイツらに殺されてさ。」
シャンクスがそういって指差した先に剣を突き立てられ死んでいる男が居る。
よくみればあちらこちらで見たこともないような格好の男達が地面に倒れてピクリとも動かなくなっていた。
何も言えず地面にへたり込んだままの団長にシャンクスはにっこりと笑うと、ゾロの首から伸びていた鎖をグイっと引っ張った。
「それじゃ、これは貰っていく。」
グイグイと容赦ない力で引っ張られて引き摺るようにして歩かされる。
ゾロは地面に力なく座り込んでいた団長を何度か振り返ったが、団長はまったく動く気配さえなかった。
「腹減ってないか、ゾロ?」
ベットでゴロリと寝返りを打ってこちらを見ているシャンクスにゾロは首を横に振った。
倒れ伏した人の中に黒髪の踊り子の姿はなかった。
「喋れないのか?」
静かな琥珀の瞳にゾロはゆっくりと首を振る。
彼女はどうしたのかシャンクスに訊ねなくても分かる気がして手のひらの中で3個になったピアスを握り締める。
「・・・・喋れる。」
まだ声変わりしていないゾロの声は高く少女のように部屋に響いた。
その声を聞いてシャンクスは楽しそうに笑う。
「なんだ、良かった。喋れるんなら喋ってくれよ、俺が退屈だからさ。」
何が楽しいのかケラケラとひとしきり笑ってシャンクスはもう一つのベットを指差した。
「そっちがゾロの。床なんかで寝るなよ?寝てたら俺の布団の中に引き摺り込んじゃうぞー?」
優しい眼差しに頷いて、そっとベットに近付く。
初めて触れた柔らかな布団の感触にゾロが驚いていると隣のベットから声がかかった。
「明日の朝にはここ引き払って出るからさ、今夜はゆっくり寝ろよ。」
声に促されるようにベットの中に潜り込みゾロはそっと目を閉じる。
ふわふわとした感覚に落ち着かない気分を味わっていると、隣でゴソゴソと何度も寝返りを打っている音がする。
「なあ・・ゾロ、寝ちまった?」
シャンクスの声に目を開けて小さな声で起きていると答えるとシャンクスは変な事を言い出した。
「歌、歌ってくれねえ?子守唄。」
意味が分からず沈黙していると、また寝てしまったのかと問いかけられる。
「歌なんて歌ったことねえ。」
ゾロが知っている歌は陽気な少女が何度も歌っていた歌と、踊り子の彼女が時々歌っていた歌の二つだけ。
そのうち少女の歌っていたものは陽気なリズムで、なんとなく眠る時に聴く歌じゃないだろうとそういうことぐらいは分かるが、歌なんて生まれてからずっと歌ったこともないのだ。
踊り子の歌っていた歌もどこか別の国のらしく音の羅列としかゾロは覚えていない。
何故か期待しているようなシャンクスの気配にゾロは溜息をつくと、踊り子の彼女がくちずさんでいた歌をゆっくりと口ずさみ始めた。
甘くゆったりとしたメロディを彼女が歌っていたようになぞっていく。
2度ほど同じ音を繰り返したところで隣のベットから寝息が聞こえているのに気付いた。
ゾロは握り締めたままだったピアスをそっと枕の下に忍ばせるとゆっくりと目を閉じたのだった。
チャラリとピアスが触れ合う音がしてゾロは過去に飛んでいた意識を目の前の男に戻した。
長い鼻の宝飾職人はこのバラティエに仕え始めて出来た友人だった。
気のいいこのウソップという男は先祖代々宝飾職人をしていることを誇りだといって楽しげに笑っていた。
「見てて面白いのか?」
土を練り、細い掘り起こし用の刃を使って繊細な模様をそれに刻んでいく。
ウソップの問い掛けにゾロは無言で頷いてその手元をジッとみている。
その真剣な眼差しにウソップは嬉しそうに笑った。
無愛想だけれど真面目で優しいゾロの事をウソップもいまではかけがえのない大切な友人だと思っているのだ。
「ほい、これであとは焼いたら完成だ。」
綺麗な螺旋を幾筋も描いたそれは焼き上がれば銀の指輪になる。
幅の広いそれは貴族達の誰かの指に嵌められるのだろうが、ウソップとしてはそんな貴族よりはるかにゾロに嵌めてもらいたいとこっそりと心の中で思っている。
剣を扱う無骨な手だがきっと似合うと思うのだ。
繊細な模様で彫り上げた指輪にその瞳と同じ紅玉をあしらって、シンプルだけどきっとゾロには良く似合うだろうと思う。
「ここに居たら邪魔か?」
静かなゾロの声にウソップは陽気に笑う。
「まさか、俺は全然かまわないぜ。ゾロが居たいなら好きなだけいればいいさ。」
ウソップの言葉にホッとしたようにゾロが笑みを浮かべる。
滅多に笑わないがその優しい微笑みにウソップは心がほんわりと温かくなったの感じた。
ゾロがかすかに首を傾げたせいで微かに音を立てた3連の涙型の細い金のピアスに眼をやって、そういえばと思い出す。
ゾロに懸想していると噂の第3王子がそろそろお忍びで遊びにやってくる時間じゃないだろうかと。
「よう、長っ鼻ー、プリンスサンジさまだぞー。」
バタンと工房の扉を蹴破るような音がしてウソップは眉を顰めた。
やはり今日だったかと思っているとゾロが椅子から立ち上がっている。
見れば同じようにゾロも眉を寄せて嫌そうにしている。
「悪い・・・帰るな。」
「ああ・・、また来いよゾロ。」
サンジが入ってきた扉を避けるために、ヒラリと2階の窓枠から身を躍らせたゾロを窓から見送る。
やれやれゾロも大変だよなとウソップは苦笑しつつ去っていくその背に苦笑した。
その間にも足音荒く入ってきたサンジは先程までゾロが座っていたその椅子にウソップに断りもなくどっかりと腰を降ろした。
「ゾロに会えねえ、あいつ、俺の事避けてやがる。」
ブスっと不貞腐れた顔で呟いたサンジにウソップは溜息をついた。
そのゾロがさっきまでその椅子に座っていたと教えたらサンジは悔しがるだろうか、それとも怒るだろうかと思いつつ賢明なウソップは口にはしない。
ゾロより付き合いが長い、見た目よりかなり複雑な精神構造をしているこの第3王子の事もウソップは嫌いではないのだ。
サンジがどう思っているかは知らないがウソップはこの王子の事を友人だと思っている。
「ちくしょう、ゾロに会いてえ・・。」
どこか切なさの混じるその呟きにウソップは苦笑する。
その容姿から男に迫られることは嫌いなはずなのに、ゾロに自ら近付いていっていると話を聞いたときは、思わず笑い飛ばしてしまった。
きっぱりと人違いだろうと言ったぐらい女尊男卑の激しい男なのだ。
確かにゾロはウソップから見ても綺麗なのだが、それはサンジの好きな女性の持つ繊細な美しさではなく、野生の獣のような力強い生命の美しさなのだ。
いつも遠くを見ているような紅玉も、まっすぐに伸ばされた背筋も、その大地を踏みしめている両脚も、ゾロの生き様のように凛として美しい。
「お、これ、いつもの差し入れ。」
ニヤリと笑って差し出されたバスケットを受け取って中を覗き込めばウソップの好きな鳥の香草焼きが入っている。
「おおー、美味そう。」
「ばーか、美味そうじゃなくて美味いんだよ。」
笑いながら煙草を取り出しかけて、ここが工房の中だということを思い出したのか慌てて仕舞うそんなサンジにウソップは笑った。
きっとサンジがゾロに変な迫り方をしなければふたりはとても仲の良い友人になれるだろうといつも思うのだ。
見ている方向も、その立場も違う二人だが、根本は良く似ていると感じることがあるから。
「やっていくんだろう?」
まだ少し昼食には早い。
美味そうな匂いには食欲がそそられるが、まだ少し仕事が残っている。
キリがつくまではウソップが食事を摂らないことをサンジも良く知っているからこの料理も冷めても美味いものを持ってきてくれている。
ウソップの問い掛けにサンジはにっこりと嬉しそうに笑う。
そしていそいそと上着を脱ぎ、軽装になったサンジは腕まくりを始める。
そのサンジに拳を握った大きさ程の粘土を手渡し、いくつかの木枠と掘り込みようの小刀を用意して机に並べる。
「だいたいこれぐらいの大きさだ。」
ウソップはそういって粘土を適当に千切ると細い棒状に丸めてみせた。
そしてそれを机の端に置いてやる。
真剣な眼差しでそれを見つめて粘土を千切ると同じように捏ね始めたサンジを放っておいてウソップは自分の作業台のほうへと移動する。
ゾロの片方にだけ飾られている涙型の細い金のピアス。
何故3個なのかと親しくなってすぐに聞いたが曖昧に笑うだけでその理由は教えてはくれなかった。
きっとゾロにとって大切なものなんだろうと思う。
そしてそれは、とてもゾロに似合っているとウソップは思うのだ。
いま隣で真剣な顔で粘土を捏ねている男も同じように思ったのだろう。
真剣なサンジの姿にこっそりと笑うとウソップは型取りしてあった指輪の台座にそっと小刀を滑らせたのだった。
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←BARK
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