■ ■ 色 彩 ■ ■
恋を知らない子供じゃないとそう思っていた。
いつだって大人に囲まれて育ったその環境がそう思わせていたのだとしても、俺はそう思っていたのだ。
そう、あの日、あの場所で、あの男に出会うまでは・・・。
「ゾーロォー、暇だ、遊ぼう!」
「うるせぇ、俺は眠みぃ・・。」
「あー、もう、そう言ってずーっと寝てんじゃねえか。いい加減起きて遊ぼうぜぇ。なあなあ、ゾーロォー。」
天気の良いこんな日は絶好の昼寝日和とばかりに万年寝太郎の剣士に構う船長の姿を眺めてサンジは静かに煙草の煙を吐き出した。
小さな羊頭のこの船はレッドラインを抜けて、グランドラインに降り立ち、ゆっくりと進む。風を孕んだ帆も、潮の流れも問題なく船体は快調に海を渡っていく。
「暇そうねーサンジくん。」
「あっ、ナミさん。」
風に乱されたオレンジの髪を片手で押さえながら階段を上ってきた可愛らしい少女に思わず笑み崩れる。
「ふふっ、相変わらずルフィが我儘言ってるのね。」
「そうみたいだね。」
マストに寄りかかるこの船の剣士に船長であるルフィが絡むのはいつものことだ。
小さな小さな海賊船。麦わら海賊団のクルーは今此処にいない異様に鼻の長い狙撃手を入れても片手の指で足りるほど少ない。それでもそれぞれがトップクラスの能力を目指している若い力の集まりだ。
オレンジの髪の少女、ナミは世界中の海図を描くことを誓う航海士で、この海賊団の唯一の女性でもある。
「何か飲み物でも用意しましょうか?」
「そうね。お願いできるかしら。」
にっこりと微笑むその顔は可愛らしく、いつだってサンジに浮き立つような淡い感情を抱かせてくれる。
「了解、ナミさん。」
煙草の火を消し、笑みを返してキッチンへと続く扉へと手をかけたサンジの背後で笑い声が上がる。歓声交じりのその声に、先程まで居なかったもう一人のクルーも姿を現したのだとサンジは微かな笑みを浮かべたままその場を後にする。
「5人分だな。」
フッと唇を笑みの形にしたままシンクへと向かう。あれだけ騒がれれば眠ることも出来ず、剣士も起きているだろうと彼の分もまとめて飲み物を用意することにする為にサンジはカップを五つトレイの上に並べていったのだった。
一つ一つを丁寧に、壊れやすいガラスや繊細な陶器で出来たグラスではないが、それでも丁寧に扱っていく。
今日の天気から一瞬だけ冷たいものにするかと考えて、やはり風の強さから温かい飲み物を選択したサンジは水を張ったヤカンを火にかけた。
ナミは濃い目の紅茶に少しの砂糖とブランデーを少々。
ルフィにはミルクと砂糖をたっぷりと入れて甘いミルクティに。そしてウソップと自分用には何も入れないストレイトを用意する。
「・・・・・。」
茶葉の量を調整しながらそれぞれに必要なそれらをグラスの横に準備していく。そして最後の一人、ゾロの飲み物を用意しようとしたサンジの手が止まった。
「・・・・・クソッ。」
カチンと金具のぶつかった音にサンジは苛立たしげに舌打ちすると少々乱暴な動作で手にしていた紅茶缶をシンクの脇に置いた。
この小さな海賊船にコックとして乗り合わせてから一月以上が経つ。
その間に、それぞれの食の好みから、飲み物の好みまで、本人が自己申告してきたものもあれば、こちらがその表情から気付いたものもある。何を出しても美味いとしか言わないルフィや、嬉しそうにフォークを口に運ぶナミの笑顔、さりげなくルフィ側の皿に苦手な料理を移動させるのはウソップだ。そんなそれぞれの仕草もサンジは嫌いではない。だが、ゾロはそのどれもをサンジに見せたことはないのだった。
もちろん、好き嫌いのないことはコックにとって望ましいが、それと個人の好みというのはまた違うだろうとサンジは常々思っている。誰だって好きな食べ物や、味覚というものがあるはずなのだ。
それなのにゾロという男は黙々と料理を食べ、酒を飲み、クルーの馬鹿話に笑いはすれど、一度として満足そうな顔で食事をとっている姿を見せたことがない。自分の好きなもの、また、好きな味であれば無意識にでもその口元は綻ぶはずなのに機械的に食事をしているという感じがどうしてもサンジの中で拭えないのだ。
お湯の中で開いた茶葉を茶漉しで移さないようにそれぞれのグラスに注ぎ入れていく。
ストレイトで飲む二人を先に、次にナミのものを、そしてその次にルフィ、残ったものをゾロのグラスに注いでいく。グラスを満たす赤い液体は4つ。ナミのものを除くと3つのグラスはどれもが同じようにトレイの上に納まった。
はあっとサンジは重めの溜め息をつくと、グラスを乗せたトレイを手に甲板へと向かう。
「おおーっ!サンジィおやつかあ?!」
キッチンから姿を現したサンジを目敏く見つけたルフィが嬉しそうな声を上げる。
「おやつはまだだ。」
「ええーっ!!」
カツカツと靴音を響かせて近寄ったサンジを見上げて唇を尖らせる姿には思わずといったふうに苦笑を浮かべる。
「お待たせいたしました、レディ。」
いつの間にやらルフィ、ウソップ、ゾロと同じ場に座っているナミの視界にゆっくりと腰を屈め、トレイからナミの為に用意したグラスを差し出す。
「ありがと、サンジくん。」
にっこりと笑ってほっそりとした手がグラスを受け取ったのに笑みを返すと、サンジはクルリと残りの男共の方へとトレイを移動させた。
「ほらよ。」
「うほほぉーっ。」
分けのわからない奇声を上げながら受け取ったルフィに続いてウソップに渡し、サンジは頭の後ろで腕を組んだままこちらを見ているゾロへとトレイを押しやった。
「・・・・取れよ、クソ剣士。」
じっとトレイの上に置かれたグラスを眺めているゾロへとサンジはもう一度それを押しやる。
「どっちだ?」
飲み口と取っ手が金属になっている分厚い陶器はどちらも同じ色をしている。ルフィの飲む紅茶は見た目で分かったが、ウソップのものは他の二つと同じく同色をしていたのだ。そのときサンジはきちんとこれがウソップのだと示して間違えないように取らせていた。
「どっちでも。」
そう答えたサンジの言葉にゾロの眉がかすかに顰められ、ついでゆっくりと伸びてきた手が無造作にグラスを一つ掴んでいく。コクリと一口、口に含んだゾロの眉が顰められた事を確認してからサンジは残りのグラスを手元へと運んだ。
ワイワイと話をしながらそれぞれが美味そうに紅茶を飲んでいる横でトレイを脇に抱えたままサンジも同じようにグラスを口に運ぶ。口の中に広がる茶葉の香りとかすかな苦味を堪能し、温かなそれをゆっくりと嚥下する。
「ごちそうさん。」
トンと軽い音を立てて置かれたグラスにチラリと視線を向け、先ほどと同じ頭の後ろで腕を組んだゾロへと顔を向けた。
「美味かったか?」
出涸らしというわけではないが、かなり濃い紅茶は苦くて美味いもんじゃないだろうと始めの一瞬だけ眉を動かしただけで、文句を言うわけでもなくグラスを空にしたゾロへと声をかける。そんなサンジへチラリとだけ視線を向けて、興味がないとばかりに逸らされた視線にサンジはかすかにトレイを抱える腕に力を篭めた。
「ご馳走様、サンジくん。」
「うんまかったあ〜。」
「美味しかったぜ〜。」
コトコトコト。感想と共に先に置かれたゾロのグラスの傍にそれぞれのグラスが返ってくる。
「いえいえ、どういたしまして〜ナミさん。ついでにクソヤロウども。」
自らのグラスもすっかり空にして、サンジはグラスを一つ一つ拾い集めていく。そして最後の一つをトレイに乗せようとしたその耳に小さなゾロの言葉が落とされた。
「!!!」
咄嗟にトレイを抱えて、逃げ出すようにその場を後にしてキッチンへと飛び込んだサンジの耳に残ったのはたった一言。
『テメェのほうが知ってるんじゃねえのか?』
それが先程ゾロに問いかけた『美味かったか?』の返事であると、サンジだけにしか意味の通じないその言葉。
そう、サンジは分かっている。けっして美味いものじゃないと分かっていながらゾロのグラスに砂糖もブランデーもミルクも、何もしなかったのだ。
「クソッ!!」
ガチャと派手な音を立ててシンクにトレイが放り出される。
ゾロはたぶん気付いているのだ。
サンジが彼をもてあましている事を。
そして、知りたがっている事を。
「・・・・クソッ!!」
ガンっと思わず蹴り上げたテーブルが浮き上がりドスンと派手な音を立てて落ちる。
サンジはぎゅうっと長い前髪を指に絡め握り締めながらきつくきつく両目を閉じる。
「仕方ねえだろうが・・・。」
低く呟いたサンジの言葉に返事は返らない。
その後、サンジがおやつだと声を掛けるまでは、結局誰もキッチンへと姿を現すことはなかったのだった。
静かな夜であればこそ、眠れない夜というものが存在する。静かすぎる空間は眠れない思考を空転させるのだ。
「眠れないのか?」
翌日の朝食の仕込みを終え、キッチンの灯りを落としたものの一向に訪れない眠気に諦めてサンジは甲板へと戻ってきていた。海賊船には不似合いな可愛らしい羊頭のその横で煙草に火をつけたサンジに気付いたのか見張り台からひょっこりと長い鼻の狙撃手が顔を出す。
「あー、まあ、ちょっとな。」
星空を背にこちらを見ているだろうウソップの表情は分からないが、サンジの返事に軽く肩を竦めたのはそのシルエットで分かった。
「ふぅーん?なら、上あがって来いよ。退屈なんだよ。」
夜の見張り台は当番制で今夜の当番はウソップだが、一昨日前はサンジも同じようにその場で夜通し海を眺めていた。夜の闇に紛れて襲ってくる同業者や、巡回中の海軍に発見される危険、海王類に襲われる危険性も可能性としては0ではないのだが、それでも何の変化もない夜の海を一晩中眺めているというのは退屈な作業でもある。
「わかった。少し待ってろ。何か持ってってやる。」
「おっ、さんきゅー。」
サンジを誘った正確な意味を汲み取って笑い混じりに答えると、嬉しそうな声が頭上から降ってくる。そんなウソップに軽く手を振り返してサンジは、少し前に後にしたばかりのキッチンへと戻っていったのだった。
「ほら、零さないように気をつけろよ。」
「おおーっ、待ってました。」
パンに卵と焼いた厚切りのハムを挟んだものと、熱い珈琲を注いだカップをウソップに手渡す。サンジから受けとったそれらを手に、先程と同じ位置に戻ったウソップは腰を下ろすなり、ペリペリとパンを覆っていた紙を剥がしていく。
「いただきまーす。」
「どうぞ。」
大きく口を開けて豪快にかぶりついたウソップに目を細めて笑うと、サンジは見張り台の手すりに背を預けるようにして静かに夜の海へと視線を向けた。
「うんめえー!!」
嬉しそうなウソップの声にまっすぐに引き結ばれていた唇がかすかに綻ぶ。その口元に煙草を運び、火を着けながら、サンジは静かな波の音に耳を傾ける。
夜の海の静けさはサンジの中の思考をかき乱すことなく捉えてしまうから、好きにはなれない。
「・・・・なあ・・・。」
「んっ?」
ごくんと喉を鳴らして最後の一口を飲み込んだウソップが熱いカップを手にサンジを見上げてくる。
「ゾロと・・・・なにかあったのか?」
控えめな問いかけにサンジは手すりに預けていた指をピクリと小さく震わせた。
「何かって・・・なんだ?」
「さあ?」
問いに問いで返したサンジにウソップが軽く肩を竦める仕草をする。時間つぶしの為に持ち込んだ部品なのか、ごつごつとした金属の塊に視線を泳がせ、サンジはゆっくりと煙草の煙を吐き出した。
「・・・・俺は、変か?」
ぎゅっと手すりを掴んだ指に力が入り、サンジはゆっくりとその手を開いていく。
「あー・・・まあ、そう、だな。」
サンジから視線を逸らし、小さな声で答えてきたウソップにサンジはハアッと大きな溜め息をついた。他人から見てもおかしいと感じるのだ。己のゾロへの態度は。
「どうしてもダメになったら話す。」
この船に乗るクルーの中で、サンジがこの相談を持ちかけるのならばたぶんウソップになるだろうと思っている。ナミもきっと話を聞いてはくれるだろうが、その時は、たぶんナミになど聞かせていい話ではなくなっているだろう。
「ああ、聞くだけしかできねぇと思うけど。24時間ウソップ相談室は空いてるからな。」
長い鼻を軽くこすって笑ったウソップに釣られるようにサンジも小さく笑みを漏らす。
「おう、その時は叩き起こしてでも聞かせてやる。」
「いや、寝てるときはそのまま寝かせてろよ!」
軽口を叩いたサンジにウソップのツッコミが入り、なんとなく二人で噴出すようにして笑い出す。
そのままひとしきりくだらない馬鹿話をして、やっと訪れかけた眠気にサンジが小さく欠伸を漏らしたところで、ウソップに部屋に戻って寝るように進められた。
「悪りぃな。あとよろしく。」
「おう、おやすみ。」
「おやすみ。テメェは寝んなよ?」
「分かってるって。」
飲み干されたカップを手に、最後まで軽口を叩きながらサンジは見張り台の手すりからロープへと身体を移動させる。
さて、これだけ片付けて寝るかと眼下へと視線を向けたサンジの背後でウソップが身じろぎしたようだった。
「なあ、サンジ。」
「んっ?」
「・・・・・・・・ゾロの事、嫌いってわけじゃねえんだよな?」
困ったようなウソップの言葉にサンジはロープを掴んでいた手に力を篭める。一瞬の動揺を振り返るまでに綺麗に消し去り、サンジは振り返って背後のウソップに眉を顰めてみせた。
「嫌いじゃねえよ・・・たぶんな。」
ニッと唇を歪めて笑い、そのままその場を後にしたサンジの後ろからたぶんかよーとウソップの声が響く。それに振り返ることなくひらひらと片手を振ってサンジはキッチンへとカップを手に歩いていく。
「朝飯!期待してる!!」
「おう!任せとけ!」
大きな声に元気よく返してサンジはキッチンの扉に手をかける。
「わかんねえんだよ、長っ鼻。」
扉を開くその音に、紛れて零したサンジの声は、静かな夜に吸収されて誰の耳にも届くことはなかった。
(2008/05/11発行 『 色 彩 』より冒頭部分抜粋