act.4 *
道なき道を三十分ほど山に向かって進み、開けた視界の先、その獣の住処はあった。
切り立った一枚岩のその奥、人間たちが絶壁と表現するその壁のすぐ近く、柔らかな苔の生えた倒木を住処として彼は暮らしていたのだ。
「グルルルル・・。」
ほんの少し前、風に乗り鼻先へと届いた不快な臭いに彼は鼻に皺を寄せた。最近、嗅ぐことの無かった臭いだ。小さな獣達とは違う、その臭いに彼は一つ頭を揺するとうっそりと住処に横たえていた体を起こす。
耳に届くのは小さな鳥達の囀りと、時折迷い込む小さな生き物たち。そしてそれを狙う獣たちの足音。
彼が耳にしていたそれらとは明らかに違う音に獣は眉を顰めた。
パキパキと小枝が折れる音や、葉を踏みしめる音、なにより彼が不快に感じたのは風に乗って運ばれてきた彼らの臭い。ヒクリヒクリと幾度か鼻を鳴らし、風に混ざったそれに息を吐き出して鼻に皺を寄せた。
この臭いは嗅いだことがある、と、彼は思った。
そして獣は嫌な臭いだと鼻に皺を刻んだまま金色に輝くその目を細める。
そうこれはあの日の、あの時に嗅いだものと同じだ。
グルルと獣は喉の奥で低く唸ると、そっと欠片も音を立てることなく一歩を踏み出す。
ふわりと風に靡いた真っ白な毛皮を木立の間に隠し、鋭く尖った牙の間から静かに静かに息を吐き出す。
獲物だ。
食っても美味くは無いけれど。
獲物なのだ。
静かに静かに視界の中で動く獲物を見つめながら、彼はゆっくりゆっくりとその距離を縮めていった。
やがてもう一つ個体が増え、ますます自分の住処に近付いてきた獲物達に獣は一声唸り声をあげると、彼らの前へと姿を現したのだった。
火山岩の一種なのか、手で触るとポロポロと容易くその肌を壊していく。薄いまるでセロファンのように透けて見える岩を楽しんだサンジたちの前に現れた獣は、地響きのような咆哮を上げて鋭い眼差しを向けてくる。身体全体を覆う真っ白な毛は微かな陽光を反射してピカピカと輝き、頭の上にある大きな三角の耳は警戒にか後ろへと伏せられていた。
「コイツか?ナズウ?」
「ぅ・・・・ぅうあ。」
ドスンと地に大きなものが落ちた音がして、そちらにチラリと視線をやったサンジはやれやれといったふうに口に咥えていた煙草を上下に揺らした。獣の出現に覚悟を決めてこの場所へ向かったものの、実際に出くわした後の対応をナズウはどうやら考えていなかったらしい。
「狐・・・いや、狼か?」
しげしげと目前に現れた獣を見つめて、感想を漏らしたゾロにサンジも軽く頷く。
「そうだな。ちょっとデケェが、ま、そんなとこだろ。」
「だな。」
二人ののんきな感想にナズウはその場に尻餅を着いたまま大きく目を見張った。
確かに狐や狼といった獣に見た目は類似しているが、この真っ白な毛に覆われた獣はその狐や狼の何倍もの大きさだ。四肢の獣ではあるが、その四足で立っている姿は辺りの木々の半分以上ある。そして身体全体はその二倍、いや、三倍はあり、こうして対峙するとナズウの視界はその真っ白な獣だけで埋まってしまう。
そう、この目前に現れた獣こそ、確かに数年前、自分の父親とそしてその時の相棒だった父親の友人の命を奪った猛獣だ。その時にナズウ本人もその爪にやられ、生死の境を彷徨っている。父親が命を捨てて己を守り、そして瀕死のナズウを何とか町外れまで連れ帰り、その父親の友人もその場で同じく獣から受けた傷が元で命を落としている。
「グルルルルゥゥゥ・・。」
低く辺りを揺るがす獣の唸りにナズウは背中を伝う冷たい汗に気付いた。今度こそ、死ぬかもしれないという恐怖に頭の中にシイラの怒ったような泣き顔が浮かんでは消える。
「おーおー、怒ってんなあ。」
クククと小さく笑った金髪のコックに横に並んでいた緑の髪の剣士が肩を竦める。
「テメェの煙草が嫌なんだろうよ。」
「あっ、ひでぇ。」
死を覚悟したナズウの前でのんびりとした会話が交わされていく。その緊張感のなさにナズウはゴクリと唾を飲み込んだ。
「で、どうする?」
「フッ・・。」
ニヤニヤとしたコックの問いかけに緑の剣士がゆっくりと己の刀に手を掛けるのをナズウはぼんやりと地に尻を着けたまま見上げていた。
「遊ぶだけなら俺のほうがいいだろう。テメェに任せると今夜は狐汁になりかねねえ。」
キラリと一筋光を弾いた刀身を手に獣を見つめる剣士をナズウはただ見上げる。
「まあ、俺らの狙いはブエって実だけだしなあ。食いではありそうだが・・・、ま、無駄に殺す必要はねえだろう。おい。」
「・・は?ふぇえ?」
チラリと蒼い瞳を向けられてナズウはへたり込んだまま金の髪のコックへと顔を向けた。
※※2008/08/24発行 『神様の手〜後編〜』より一部抜粋